既読無視されてたけど会ったら大丈夫だった話

年末のコンサートオファーを、親戚の来日を優先してお断りしたところ、その旨を伝えるLINEが既読無視になっていたお友達のおじいちゃん。(お友達であるおじいちゃん?)


(国籍は向こうを選んだから帰国というか来日だよな、よく考えたら次男坊の彼は伯父が移住してから産まれたから生まれも向こうだわ)


昨日はそのおじいちゃんが主催する月一の歌声喫茶の伴奏隊の手伝いで、いつものイタリアンレストランへ向かう日で。


まぁたぶんうっかり返事し忘れただけだろうとは思うけど、ぶつかりおじさんおよび易怒性高齢男性の話をTwitterでさんざん読んだばかりにちょっと「おこなの…?」と心配もよぎりつつ…(認知症的な高齢者の易怒性については前から知ってはいたけれど)


おかげで珍しく事前に殊勝にうた本の曲を練習していった(←いつもやれ)…しかも練習しておいたうちの一曲(異邦人)がドンピシャでリクエストされてちゃんと弾けてよかったりもした…

(まぁうた本全部で500曲以上あるから全部練習するのは無理だけど、コード進行が速くて目まぐるしくて難しい曲とか、あとコードがややこしすぎて移調した方がいい曲だけ)


昔だったら、この既読無視にものすごく気を揉んで、もっと取り乱してパニックになっていたかもしれない。


まぁ普段練習不足だから伴奏の練習をするのはいいとして、今回はそれ以上に変におじいちゃんに会うのが怖くなったりはしなかった。「きっと大丈夫」と思う、相手への基本的信頼感があった。


相手が不機嫌になっていると想像することは、相手を見くびっていることになるんだな、と改めて。今目の前にいない相手の上機嫌をいつも想像する。単純だけど、相手を信頼するってそういうことなんだろう、と思うようになった。


嫌われる勇気読書会でアドラー2冊分たっぷり学んだからかもしれないけど、共同体感覚(自分は相手の味方であり、相手もまた自分の味方であると無条件に信頼する感覚)が前より身についてきた気がする。


なにか予期せぬトラブルがあっても、「きっと忙しくて返信を忘れちゃっただけだな」と基本的に相手を信頼する。自分の周りに悪意の可能性をわざわざ読み取らない。


悪意はないものとする…中学理科の摩擦と空気抵抗のない世界みたい…するとそこはそのまま悪意のない世界になる。ふふ、単純。でもそこはとても居心地がいい。アドラーおじさんが作りたかった、戦争のない理想郷。


もちろん人を怒らせたら、自分の領分について過失や不足があれば謝る。謝っても許してもらえないかもしれない。でもそこは相手に任せる。課題の分離。

 

怒るのも、許さないのも、相手の自由。自分以外の部分はすべて相手に任せっきりにする。自分にできることだけに集中する。とても世界がクリアになる。余計な気を揉まなくなるから、肩の荷が軽い。

あと、なんでそんなに怒ってるのか、相手を観察する、相手の状況や後ろの物語ををよく理解しようとする、可能であれば質問する。

以前だったら、「怒ってる、こわい」とフリーズして思考停止していたけど、相手を知ろうとする方向に脳みそをシフトチェンジする。実際なににどのように怒るかというのは、その人を知るチャンスでもある。その人がいったいなにを大切にしているのか。またとないチャンスだと考える。

そう思うと、前はこわくて不快で仕方なかった「不機嫌丸出しの人」も、前ほど不快ではなくなった。息子が赤ちゃんのときに読んだ『赤ちゃんの言葉がわかる魔法の育児書』のように、その大きな赤ちゃんの身体表現を読み取って辞書化していく作業だと思えばいい。不機嫌の尻拭いを相手に求める。それは言ってみれば赤ちゃんのしぐさだ。

(ああー、これは顔を横に向けてるからお腹が空いてるんだな)とか(足を上にあげてるからガスが溜まってるんだな)とかみたいに、(昨日サッカーで夜遅くまで起きてたから寝不足なんだな)とか(だんだん不機嫌になってるから朝ごはん食べそびれて空腹なのかもしれないな)とか思うようになった。


ましてメールやLINEでは相手の情報はほとんどない。返事をしない理由なんてわかるわけがない。相手とのわずかな情報(オファーを断ったこと)に理由の全部を集中させることはやめる。既読無視するってことは、怒ってるんじゃないかな?と心配するのをやめる。


あともし怒っていたとしても、それは相手の課題で。その怒りはその相手がなんとかするものだから、私は謝る、とか繰り返さない、とか、動作でしか返せない。


もし相手が私に「罪悪感を持つこと」を求めるとしたら、それは私の味方ではない人なので、近づかずにそっとしておく。私が罪悪感を持つことで気持ちが晴れる人と親しいお付き合いをしてもいいことなんてない。


罪悪感を持つことを他者に求める、というのはけっこうすごいことなんじゃないかと思う。反省しろと要求する。自分の「不愉快」を相手にも「感じる」ように求める。自分と相手に感情を共有するように求める。そこには自他の境界がない。


もちろん人はメンタライズのモードが常に固定されているわけではないから、疲れているとき、体調が悪いとき、睡眠不足のとき、悲しいとき、メンタライズ力が一時的に落ちて、「私の機嫌をとってくれ」と近しい人に赤ちゃんのしぐさが出てしまうことはある。


それは共同の課題として、ケアしてあげることはできる。疲れているんだね、お腹も減ってるんじゃない?よしよし、このチョコバーを食べなさい、と。


ただ、いつも常日頃「私の機嫌を取るのはあなたの役割」とばかりに自分の感情のケア(尻拭い)を他者に求めてくる相手は、完全にこちらをゴミ箱扱いしているので、人間扱いをお願いするか、お付き合いをお断りしていいと思う。


で、冒頭の話。結果として、やはりおじいちゃんは会えばいつも通りで。にこやかにやりとりできて、普通に歌声喫茶の伴奏も滞りなくできた。よかった。


想像上のおじいちゃんを実物より怖いものにしない。他者を信頼する。目の前にいない相手の上機嫌をいつも想像する。想像上の他者は、実物よりほんの少し機嫌のいい人にしておく。それが私の共同体感覚。


ただまぁ今から少しだけ会議の準備はしておこうかな。これはまぁ、仕事のタスクとして。


#今日のお歌… 【ワットアワンダフルワールド(邦訳私家版)】そう、このクソみたいで素晴らしき世界。(某コーヒーのCMみたいだなww)
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