心と向き合うこと。自分で自分の味方になること。(読書会の記録)

 

☆読書会の覚書。(うろ覚えで書いてるので間違ってるところがあるかも。特に心理学用語の解釈とかは変だったらお手数だけど正規の文献にあたってください。ちょっと曖昧なまま書いていた部分があり、あとで調べて追記します←追記しました)

 

※最初10/25のメンタライゼーションの読書会の記録を書き始めたんだけど、途中で寝落ちしてそのまま放置し、今日続きを書こうとしたら10/27の嫌われる勇気の読書会の記憶と内容が混ざってあっちこっちしたので、もう両方の記録とする。(不可分)


メンタライズは自分の心と向き合うこと。でもなにかこわいことがあって、心を守らなくては、と思うと心の防衛規制が働いて心はそれを「なかったこと」にして意識からは見えないようにする。

心ってすごいな。自分を守る力無限大じゃん、となる。(ある意味たくましい。)人の記憶なんて、心に都合の良いようにいくらでも書き換えられてしまう、なんて当てにならないものか、とも思う。

(他人の記憶の改竄を見るとギョッとしてその人が異常なんじゃないかと思うけど、案外自分も気づかずにやっているもので、それで普通。最近の私の意識では記憶が正しいと思うことの方がおかしい。みんなちがってみんなおかしい。そっちがデフォルトになると、ちょっとのことで人を見限ったり、自分を見限ったりしなくなるので生きるのがラク。)

でも無意識に押しやって脳みそ(記憶・意識・理性)は忘れていても、心(無意識+意識・感覚・感情)はその事実をしっかり把握しているので、他の人がそれをやったら許せない。

だって自分が許せなくて見えないように隠したことを他人から見せられたらものすごくこわいもの。心は、それをきっかけに自分が隠したものを脳みそが思い出してしまうんじゃないかと思ってものすごく不安になる。その不安がイライラとかモヤモヤ、怒りとして出てくる場合がある。

ものすごくイラつくとかモヤつく案件は、心の無意識からのサイン。「実は私もそれやってんで」とか「それに関してはな、実は隠してることがあんねん」という心から脳みそへの内部告発。(なぜ関西弁🤣)心にとっては負荷がかかる不快な状況だけど、メンタライズするチャンスでもある。

ただ残念なことに「心は言語を持たない」ので(これを知れたのはホント心理学系の読書会で学んですごくよかった点)、大事なことだから二度言うけど、心は言語を持たないので、心がなにかを意識(脳みそ=理性)に伝えようと喋る時は、モヤモヤとかイライラという「感情」や動悸や発汗、胸の痛みという「身体感覚」を使って喋ってくる。

感情や身体感覚は、心が脳みそに向けて喋ってくれているということ。それを知れたのが本当にうれしい。

※注・私の中では「脳みそ」=意識できる領域や理性の分野、「心」=無意識+意識の領域全てを把握している超存在で感情とか身体感覚の分野、とざっくり定義している。←これは読書会で習ったことではなく、私の独自の解釈というかネーミング。自我とか超自我とかイドとかややこしいので(^^;;

※注2・ただし上に書いた通り、心は全てを把握していても脳みそにわかるように伝える言語を持たない。心が伝えたいことは感情やぼんやりした非言語の感覚で脳みそに伝えてくるので、それは脳みそにはよくわからないことが多い。これは読書会で習ったこと。これホント使える考え方よ。めっちゃ世界が広がった。内側に。


ある人は大人になってから愛着障害の本を読んで、そうか、私の生きづらさは愛着障害かもしれない、それならお母さんにやってもらいたいことを全部やってもらったら治るんだ、と思って全部やってもらったそう。(すごい行動力)

添い寝して、とかだっこして、とか。お母さんに変な子と思われたかもしれないけど、それでもいいやと思ってやってもらった。それでもう自分の中のお母さんに対する欲望?というかそういうのは全部満足したと感じたのだそう。(すごい)

それでお母さんは絶対に「転移」しない、と思ったのだとか。母親っていちばん転移するやつじゃん、と私はずっと思ってきたので、ここで満足すれば転移しないと聞いて本当に衝撃だった。

その欲望充足行為でメンタライズされたから転移そのものをしなくなったのかと思いきや、元カレとかお姉ちゃんは未だに転移するらしい。

その転移はどこで判断してるの?と聞いたところ元カレぽい人とか姉ちゃんぽい人とかは身近に見かけるのだそう。でもお母さんぽい人、お母さんに似ていると感じる人はお母さんの他にはどこにもいない。だからお母さんは絶対に転移しないと思う、って言い切ってすごいと思った。私なんて周りを見渡せば母に似た人だらけよ(^^;;

そう確信しているのは本当にすごい。(あ、ご本人にこのお話についてのブログへの掲載許可はいただきました)

(ただし、もしこれが自分だったらと考えると、私の脳みそはよく心にミスリードされて、よく勘違いをすることがあるので(変な思い込みとか)自分が確信している事象について鵜呑みにはしないよう気をつけている。私がなにかを確信している時ほど心が何かを誤魔化して脳みそをギチギチに固定している可能性があるので、勘違いの可能性を考えるというのが、最近の私の感覚ではある。もちろん自分ではない他者についてはその限りではない。「その人にとってはそれが真実」というのは揺るがない。その人と私が同じ世界に生きる必要はないので、その人の世界のルールはそうなんだ、という気持ちで基本的に人の話は疑わずそうなんだ、と思ってそのまま聞く派)

ここでの「転移」とは、現実に目の前にいる人に、過去の別の特定の誰か(その人にとって重要な人。だいたい親)を無意識にものすごく重ねる、という意味だと思われる。

この時おもしろいのは(当事者間はめんどくさい大変なことになるので面白がっちゃいけないのだが)、目の前のAさんに、本来過去の特定の誰か(Bさんとしよう)へ向けるはずの感情がほとばしってしまうこと。

特にイヤなことをされたことがないのに、妙にニガテ意識がある人とか、なんか妙に腹立つ人がいたら、そこには知らないうちに「転移」が起こっているのかもしれない。

(もともとの心理学用語の転移は、カウンセリング中に治療者とクライエントの間で起こる現象について説明・定義されたものなので、厳密には心理療法をしている人にしか使えない言葉なんだと私は今まで理解してた…でも確かにカウンセリングルーム以外の現実でもとてもよく目にする特異な現象だから、使いたくなるのもわかる。誰か一般用語として新たな言葉を作ってくれたらいいのに。便利なのに。まぁ心理学がだんだん一般的になってきたので、この用語もだんだん一般的に使われるようになって、最初の治療者と患者という枠は外れてくるのだろうけど。もう一部ではそうなってるのかな?)

※追記・調べてみたけど、もう一般的になってるみたい。てか最初から別に治療者と患者の関係に限定してなかったとか?そのあたり詳しくはわからない。まぁでも私にとってはその辺はわりとどうでも良くて、一般の人間関係に「転移・逆転移」の言葉が使えるってことがわかればそれで十分。

▪️転移と逆転移(ここでは転移・逆転移は人間関係で誰とでも起きるもの、と明確に書かれていて、そうなんだーと思った)
https://saikolodsm.com/transference-and-countertransference-problem/

▪️「転移」と「逆転移
http://www.j-phyco.com/category1/entry33.html

逆転移は簡単に言うと転移の逆。転移が患者から見て治療者に別の誰かを重ねるやつ、逆転移は治療者から見て患者に別の誰かを重ねるやつ。(ざっくり)

逆転移とは、治療者が被治療者に対して無意識に自分の感情を向けてしまうことである。 救命 救急医療の場面では、医療従事者が自殺未遂者に対して否定的な感情を向ける(陰性逆転移)と いうことがないように留意しなければいけない。 」(厚生労働省のHPより)


転移は「投影」と近いかな?いやちがうな。投影は自分の内面を他者に映すことだから、別の誰かを重ねる転移とはちがう。

「投影」はたとえば自分が相手のことを嫌ってる時に、他者を嫌いな自分というヒールな自己像を心が受け入れられない場合に、その気持ちを無意識の見えない部分に押しやって、代わりに「相手が自分を嫌っている」と信じ込むこと。

嫌ってるだけじゃなくて、たいがい行動も伴うから、だいたいいじめの加害者はこの心理構造を持っていると言われている。

他者を理由なくいじめる自分というヒールな自己像を受け入れられないから、「相手が自分を不愉快にする、自分は被害者である(自分はいじめられたからやり返しただけである)」と心の底から信じていることが多い。無意識は本人には知覚できないから、いじめの加害者を改心させるのはプロの心理療法家でもとても難しい。

(知覚すると心が壊れてしまうから、防衛機制が働くのであって、加害者側も必死で心を守ろうとする)

だからいじめ解決のための加害者変容プログラムは、まずは加害者が投影しなくても大丈夫なように、過去のトラウマとか転移(この場合一般的な意味での転移。被害者に向けて自分の過去の葛藤相手を重ねている場合が多いと思われる)とかを取り除いていく癒しの作業になるので、被害者側からしてみたら納得できないことも多い。

GADHAの加害者変容プログラムがたびたび被害者から批判されるのは構造上仕方ない部分ではある。被害者は、加害者変容プログラムは見ない方がいいと思う。

ところで投影同一化っていうおもしろい(当事者間は大変なめんどくさいことに以下略)現象があるんだけど、要は他者から「投影」されて、自分の中にはない要素(だいたい負の要素)を相手から勝手に押し付けられているうちに、だんだん本当にそうなってしまうという。

※投影同一視ちょっとちがうかも。あとで調べて修正します。

調べました。いくつか見たけど、たぶん書いた内容でだいたい合ってる。ページによって書かれ方がちょっとまちまちなので、念のため私の解釈に近いリンクをいくつか貼っとく。(記事によって若干ニュアンスがちがう。気になる人は正規の文献に当たってください)

モラハラ被害者とかに多いみたいなんだけど、「お前は本当にダメなやつだ」って言われているうちに本当に自分はダメなやつだと信じ込んでダメになっちゃうやつ。

▪️「投影」「投影同一視」
https://counselor-licence.com/blog/post-5026/

これの良い方面だけを扱うのがピグマリオン効果かな。「アンタはすごい」と言われ続けると本当に良くなっちゃうという。

別の読書会で私が理解しつつあるアドラー心理学は「共同体感覚」っていう、自分は周りの味方である、周りも自分の味方である、自分自身も自分の味方である、という信頼関係の中に心を置くことで、人間関係のあらゆる問題を解決できる、という思考法なんだけど(個人の解釈です)、これはなかなか効果絶大で、実に生きるのが楽になった。

特に最後の、「自分自身が自分の味方である」というところ。いちばん手軽にいじめられる自分自身を、自分がいじめなくなれば、他人なんてハードルの高いものをわざわざいじめなくなるんだよね。

他者に向けたいじめ(不満やムカつき)なんて、だいたいが自分自身にいじめられた自分による八つ当たりみたいなものだから。

まずは自分が自分をいじめなくなること。そしたらわが子(自分の次に手軽にいじめやすい)にも他人にも心底優しくなれるよ、という理屈。これはホントにそうだなと自分自身の変化から実感。

自分自身が自分の味方になる。自分が自分を応援してくれる。そうすれば世界中のあらゆる人が味方だと感じられるから、敵だらけの世界から味方だらけの世界になって、ものすごく生きやすくなる。

(まぁ言うのは簡単だけどやるのはめっちゃむずかしいんだけど。)

私もずっと自分自身に自分の足を引っ張られてると思って生きてきた。喋るのがニガテで、言いたいことを言おうとすると涙が出て喉が詰まって言えなくなる自分が、自分の身体反応が、本当に大嫌いだった。

けど、その涙は、その喉の詰まりは、言ってはいけないことを言って私が「親」から嫌われないように、(私は親を色んな人に転移させてた。今もまだしてる)私自身が(心が)私のことを心配して出してくれている身体反応だとわかってからは、それが腑に落ちてからは、すごく自分自身を自分の味方だと信じられるようになった。

(あれは本当になんというか、ちょっとした神秘体験だった。私の中でバラバラになっていた「私」のピースが、ブワッと一気にひとつの「私」に収束した感じと言うか。みんな私の心も、体も、私のためにあるもので、それはもともとひとつだったんだなと。悪い私も嫌な私も思うようにいかない私もいなくて、ただ「私」がある。なんか悟り?うまく言えないけど。それからはもう私は私を責めないし、いじめない。だってそれは同じ私だから。うーん、言葉にするとなんか変だな、むずかしい。)

自分自身と世界がみんな自分の味方になること。それをアドラー心理学では共同体感覚っていう。でも一体どうやったらそんなことを信じられるのか?私も「嫌われる勇気」に出てくる青年の如く、読書会に参加した当初は不信感でいっぱいだった。共同体感覚なんて、世界中が自分の味方だなんて、そんな感覚現実的に本当に身につくのか?と。

私もまだ完全に身についたわけじゃないけど、少なくとも読書会に参加した当時よりは身についてきたように思う。徐々に、じわじわと。

生まれつき親に愛されて親からの愛を心底信じられて生きてきた幸福な人が世の中にはいて、そういう人はもともと世界は味方だと思っていて、子供の頃からずっと共同体感覚がある。

そういう人と身近に接していると、だんだんそれが「うつって」くるのだとか。これは本当に怪しげなんだけど、実際「そう」としか言えない。某吉田戦車さんの漫画のように、共同体感覚は「感染るんです」って。

共同体感覚を身につけるのには努力とか要らない。(苦しい努力をすると自分に厳しくなるからむしろ逆効果)ただ、共同体感覚を持った人の近くにいて、のんびり一緒に散歩したり雑談したりしてたらそれでいい。以上。

ここちょっと説明不足な気がするから補足しておく。

子どもの頃に親との関係がうまくいかなくて、世界が敵だと思っている人が、大人になってから世界が味方だという感覚(=共同体感覚)を身につけるには、すでに共同体感覚を持った人の近くにいること。ただ近くにいればいい。へぇーそんな簡単なことで?と思うけど、案外むずかしい。

共同体感覚を持たない人は、「自己否定する自分」を正当化するために、自己肯定する人を敵だと感じて離れようとして、逆に自分と同じ自己否定をする人を仲間だと思って近づいてしまうから。

だから最初は共同体感覚のある人のそばにいくと、自分の言うことを否定せずに受け取ってくれる相手に対して変な罪悪感が出たり、その人と比べて自分はなんてダメなんだ、といつもより自己否定が強く出たりして、その人から離れたくなってしまうらしい。

人間は自分と似ている人のそばにいる方がラクだから。

でも自分と似た人(=共同体感覚がない人)が自己否定と他者否定を繰り返す人だと、内面は安定しても結局その相手からの攻撃的な実害があったり、自分も安心して自己否定をどんどん繰り返してしまって、しんどいことになる。

だから、最初は多少居心地悪くても、自分とはちがう共同体感覚のある人(=自己否定も他者否定もしない人)のそばにしばらく一緒にいると、だんだん自分のことを否定しないその相手といるのが居心地良くなってくるのだとか。それが共同体感覚が「うつってくる」感じなのだとか。

敵は本能寺にあり、というのは、敵は自分自身ってことなんだろうな、と思う。

それって「味方も本能寺にあり」、でもあるのよな。

自分自身が自分の味方になれば、もう他に味方はいらない。周りからの攻撃も、頼もしい仲間である「自分」が守ってくれる。そうなったらもう、ひとりで十分つよい。つよつよだ。

#今日のお歌…【きらわないで】
https://youtu.be/v76SRPid6y8
自分をいくらきらっても、それは別にかまわないけど、誰にも咎められないけど、自分以外にはなれないし、いいことなんてひとつもないよ、という今日のブログとリンクしたお歌。