人助けとお金とはしごとそれから(時事問題)

時事問題です。ややこしい話なので今子育てでメンタル弱ってる人はスルーしてOK。

Twitterが今(私のTLだけかもしれぬが)Colabo問題であちこち燃えている。そういう支援団体に助けられたことがある元少女というある女性が寄せたこの記事に感銘を受けたのでちょっとだけ感想的なものを残しておく。

とても良い記事なので弱ってない人はぜひ一読をお勧めする。つまり、本当に助けなきゃいけない人達は「助けたい姿」をしていない、という話を当事者目線ですごく具体的で優しい表現にして賢くまとめてくれた記事だ。

▪️恩知らずな元少女がColaboを見て思うこと
https://anond.hatelabo.jp/20230102104157

Colaboという虐待や性的な被害を受けた少女を保護する団体が告発されて、芋づる式に福祉業界の闇的なものが引っ張り出されてわちゃわちゃしている。

各関連記事をあちこち読むに、さもありなん、という内容で、どちらが正義でどちらが悪とかいう単純な話ではないと感じる。

(あぁあ…ここまで書いて、朝の勢いで一気に書き上げた倍くらいあった続きの文章が消えてしまった…ちょっと離れて戻ったら無かった…えーん。なんか色々とややこしい内容を、私なりに言語化できた気がしていたので消えてしまってがっくり…だが思い出して書く。ちょっとちがうものになるかもしれぬが、仕方ない)

このColaboの話を読んだ時にまず浮かんだのが、センセーショナルな報道と色々な怒りや正義感にもみくちゃにされて、今もう忘れ去られようとしている「くるめさるく暴行事件」だ。

事件の内容はこちらの記事に詳しい。
▪️ 強度行動障害と、くるめさるく長瀬慎一さんらの虐待(?)事案に関して
https://note.com/haguredrp/n/nfc8a83d0180c


問題はあったのだろう。法に照らしてどうか、ということは然るべき第三者機関に委ねるしかないけれど、Colaboについても、告発があった時点で、組織内外での人間関係や何がしかの問題はあったのだろう。


弱者に支援の手を伸ばす、ということは、私の解釈では、自然な状態であれば押し流され淘汰されてしまうものを救おうとする、掬おうとする、川の流れみたいなものを渡って支えたり、あるいは流れそのものを変えたり曲げたりするようなことで。

一見どれだけ緩やかに見える流れでも、権力勾配や既得権益の流れのあるところを変化させるのはとても大きな力を要する。しかも絶えず力を出し続けなければ、流れの中に踏み止まることすらできないのだ。

それがどれだけ困難であるかという話で。そこには大きな流れに抗うための力?として、色々な思惑やヒロイズムや恩義やお金やまま関係のない美談や自己実現や社会へのリベンジや色々なものがグツグツとごった煮になっている。

とはいえ、手塚治虫先生がブラックジャックで言っているように、人が人を救うなんておこがましい話なのだけど、そのおこがましいことを、どうしようもない衝動に突き動かされてしてしまうところが、人間の愛しさ美しさだと私は信じているところがある。

だから私は弱い立場の人を支援をしようとする人たちを、ある一定の尊敬を持って見る。(もちろん全面的に肯定しているわけではない。)

たしかに別の色々が大きすぎて肝心の支援が疎かになってしまうようなものも中にはあるし、創始者の理念が立派でもそこにわらわらとくっついてきたものがあまり良くないもので絡め取られて理念が埋まってしまったものもある、あとはどうしようもない現実に足を掬われて方向がズレてしまったもの、弱者の痛みを感じとる力はあっても実務能力に欠けるもの、ある面では優れていてもある面で大きな問題を抱えているものなど、諸々の事情があって、支援団体には本当に色々ある。

とはいえ、ここで脳味噌をひねってぐだぐだ書いているだけの私と違って、彼らは団体をつくりあるいは参加し行動したのだ。その一歩に敬意を払う。

(もちろん問題は長所によって相殺されないし、明らかな問題は正されるべきだろうと思う。大事なことなのでもう一度言う、問題は長所によって相殺されないし、明らかな問題は正されるべきだろう。)

Colabo問題にせよ、くるめさるくの事案にせよ、問題が明るみに出て、正義の人々が様々な立場から問題を糾弾するとき、(たしかに後者の事案に関して、さまざまな報道記事を読むに痛ましい内容で、正義の人たちが糾弾するのもわかる内容ではあった。被害者の方々の心身の回復を心からお祈りする。)救済される弱者にいちばんしわ寄せが行くことがある。

くるめさるくの時には、強度行動障害で他の施設から断られてようやくたどり着いた利用者の方々が行き先をなくして困ってしまった。(くるめさるくはそういう重度の問題を抱える人を積極的に受け入れ支援していた。)今回も、Colaboの問題によって団体や業界全体に不信感を持ってしまった女の子達が支援を忌避して行き場をなくしてしまわないか心配している。

その支援団体が解体されたり休業したり信頼を失って機能が損なわれたりする場合(センシティブな問題を扱う団体が信頼を失うということはわりと運営上致命的なことだ)は、受け皿を用意してほしい。そこの団体に一点集中していた色々な歪みを、支える仕組みがほしい。

くるめさるくの時には、いくつかの団体や学会が強度行動障害について支援に乗り出そうという姿勢を示してくれた。とても困難なケースが多くある。同じく強度行動障害の子を持つ親として、支援が継続されていくことを願う。

何のための、誰のための正義なのか。問題は正されるべきだけど、報道も、マスメディアも、個人の感想も、困窮する弱者の梯子(はしご)を外して終わりにしてほしくはない。そこを切に願う。

1回目に書いて消えた文章はもっと思考の流れがスムーズで、こんなにくどくどしくなく自然とサラッとまとまった気がするけど(逃した魚はデカイ)、まぁ仕方ない。概ねこんなことを書いた気がする。満足ではないけれど、いったんここで筆を置く。

 

追記・冒頭リンク先で元少女が見ていると泣けてくると書いていたNICIの犬とはこれか。たしかにかわいい。
https://www.plazastyle.com/ec/pro/disp/1/P01KCN0187