害や貧困のエンタメ消費と苦痛の透明化がなぜいけないのか、その残酷さについて】

【障害や貧困のエンタメ消費と苦痛の透明化がなぜいけないのか、その残酷さについて】

すごく考えさせられた。私の中でモヤモヤしていたことの、いろんな点と点が繋がった。

▪️ ホームレスとデートの記事の残酷さ~貧困消費と感動ポルノ~/ヒオカ
https://note.com/kusuburuboku/n/n285bd5c60c53

この記事は貧困についてなんだけど、「なかったことにされる痛み」を、すごくわかりやすく具体的に指摘してくれていて。

そこには障害者とか性的マイノリティとかジェンダーとかのいろんな痛みとの共通項も多く含まれていて…なにがどういうことが「残酷なのか」ということの、点と点が繋がった。


マイノリティであるということ、見えない壁。差別に加担するとはどういうことなのか。


(中には「自分の中の差別意識」に苦しんで本来差別してる方の加害者なのに被害者感覚に陥る人もいるけどそれは社会問題とは切り離して考えたい。ややこしいのでここでは触れないけど、逆差別的なそれは社会問題というよりはその人の内面の課題なのでカウンセリングなどを利用して解消してください。)


自分が当事者ではないジャンルで、それでも社会問題は、その社会の一員として自分が当事者であると捉えること。

昨日の国際カミングアウトデーの企業炎上も、この痛みを踏みつけたから燃えたんだなと改めて。

自分の中の人権意識や社会問題への向き合い方、いつまでも昭和の価値観でとどまっている部分が少なからずある。

それでも再放送の昭和ど真ん中のアニメを見ていると(最近息子がらんま1/2北斗の拳にハマっている)「これは人権的に(ジェンダー的に)アウトな表現だな」と気づくことがある(昭和のアウトはあからさまでわかりやすい)。

変わらないようで時代は変わってきている。令和にアップデートしていこう。


さてなんでこんな話になったかといえば、発端は毎週水曜の片付けられない仲間たちと集まるzoomお片付けサークルで。

今日のお片付け会の、作業しながらワイワイ話してた雑談で、「障害や社会問題のエンタメ消費と苦痛の透明化」っていう話題が出て(なんて高尚な雑談…さすが私たちのお片付けサークル…自画自賛大絶賛)私は言いたいことがなかなかうまく言語化できなかった。

それでモヤモヤしてたら、なんとさっき、たまたま別の友人のシェアで流れてきた冒頭の記事を読んでまさにこれが今日私が言いたかったことだなと膝を打ったという次第。実に見事な言語化


雑談ではグダグダになってしまった私の言いたかったことが、この記事でようやくおぼろげに理解した。(私はものすごくなんとなくしか理解してなかった)


記事を読んで、無知ゆえのポジティブというのは暴力である、と改めて思った。無意識ポジティブ思考に陥りがちな私は常に戒めていかないといけないな、とも。

いやちょっと語弊があるな。ポジティブそのものが悪いわけではなくて。「無知ゆえのポジティブ」というのは、ある意味ニセモノのポジティブなので、それが問題。

相手のバックボーンを知ろうとしないで、一方的に自分の都合の良い明るい部分のみを切り取って暗い部分を見ないようにするのは真のポジティブではない。

ニセモノのポジティブでなにがいかんって社会問題などの当事者の苦痛を透明化してしまうこと。

それのなにがどう残酷でアカンのか、ということが、冒頭のリンク先記事では一例一例すごく丁寧に語られている。ここまで丁寧に書かれたら鈍い私にもわかる。(逆に言えばここまでわかりやすくしてもらわないと自力ではわからない)


自分が当事者じゃなくてそのことに苦痛を感じていなければ、誰でもやってしまう可能性がある(実際私も過去にやってしまった覚えがあるし、気をつけないと今後もやってしまうだろう)苦痛の透明化。


苦痛を感じている側が苦しみを吐露すると、苦痛を感じていない側、その社会システムに適応できている側は、そのつらさを無かったことにしてほしい。今のままでうまくいってるのに、システムを変えたら今度はこっちが不利益を被る可能性がある。なので苦痛の訴えを迷惑だと感じる。

でも「お前の苦痛なんか私は知らない。私には関係ない。黙れ」と言い放ってしまうと、自分がヒトデナシみたいになってしまうので、かわりにあたかもその苦痛が大したことないかのように扱って、「相手の苦痛をなかったことにする」ことで相手の口を塞ごうとする。それが暴力的ポジティブ。

本当なら、社会的な問題による苦痛(さっきも言ったけどここに逆差別的な苦痛は含みません悪しからず)の訴えがあったときには迷惑さを感じるのと同じくらい、本来はそのシステムの恩恵から溢れてしまった人たちの苦痛を踏み台にして自分が快適さを手に入れているのだということに気づかなくてはいけないのに。

他人の苦痛に向き合うのは疲れる。その疲労感情労働と呼ばれるたぐいのもので。

ただし、プライベートな人間関係で一方的に相手の苦痛の緩和・ケアを求められる感情労働が多発する場合はその人とは少し距離をおいた方がいいかもしれない。

そこには関係性の不均衡が生じているから。無理に長く続けると感情労働を強いられる側が磨耗して壊れてしまう可能性がある。

それでも自分がその相手と関わることを選択するのなら、関わる以上、相手の意図や欲求を表裏両面から受け取り求めに沿って返すのが人付き合いのマナーではある。(自分が壊れてしまうリスクが高いので繰り返すが可能なら離れた方がいいとは思う)

離れられない場合は「課題の分離」をして、その人の苦痛を丸ごともらわないようにすることで少し負荷が減るかもしれない。カエサルのものはカエサルに、相手の課題は相手に。受け取らない苦痛はその人に戻っていく。

ただ、社会問題に関してはそのあたりがちょっとちがうのだろうなと最近思うようになった。

社会問題はその社会に属するすべての人が当事者なので。その人の抱える苦痛と自分は無関係ではない。その場合は課題の分離ではなく、むしろ「共通の課題」にあたる。


この共通の課題をあたかも個人の課題であるかのように見せかける手法もある。いわゆる「自己責任論」てやつ。暴力的ポジティブと並んで「苦痛をなかったことにする」常套手段だ。


私の心ある友人が、ある監督作品群の「無邪気な残酷さ」を許せない、と繰り返し語っていて、正直私にはなにがそこまで許せないのかピンとこない感覚がずっとあったのだけど(無知で無恥で申し訳ない)…

信頼のおけるかの人がそこまで言うなら、多分その通りなんだろう、と思って少し作品と距離を取りつつ最新作を見てみたけど、それでもイマイチなにがダメなのかわからなくて(感受性が壊れていて申し訳ない)…


それがこの記事を読んで、友人が訴えていたことがようやく少しわかった気がする。(それでも少しなんだホントアホでごめん)


冒頭記事のリンク先、ある記事の批判になっている。ホームレスの男性とふとした縁でデートをして楽しかった、という町おこしPR記事。

できたら先に問題の記事を読んで、自分でその記事のなにが問題なのかを想像してから、解答編としてヒオカさんのnoteを読むことをお勧めする。そのあともう一度問題の記事を読み直してみたら、さらに理解が深まると思う。

正直言って、自分が痛みの当事者じゃない問題に踏み入るとき、相手を全く痛くしないなんてことはできない。だから賢明な多くの人は痛みの当事者じゃないことに口を挟まない、という選択をするのだろう。

でも社会問題ではそうやって痛みの当事者以外が問題を遠ざけることもまた、加害者として差別に加担する行為になってしまう。

なぜなら社会問題はその社会に属する全員が当事者だからだ。そこには痛みの当事者サイドと、痛みを与える側の当事者サイドしかない。

その人に痛みを与える社会システムに自分が乗っかっている以上、自分は加害者側だ。社会問題への無関心もまた、痛みを与える側の加害者のポジションにあたる。「私は被害者側に明確に寄り添う」と意思表明し行動する人以外はおそらく加害者サイドになるのだろう。

まぁこんなことを四六時中考えていたら心がどうにかなってしまうので、普段は頭の片隅に置いておいて、社会問題に触れたときに、折に触れて思い出すようにしたい。自分はどっちだ、と。

久しぶりに長文日記を書いた。(しかもこんなテーマが重たい)改めて、生きていくって大変なことだなと思う。大変だけど、生きていくってすばらしいことだな、とも思う。

明日を生きるために、早く寝よう。(初稿時深夜3時過ぎ)