【なげきとみじめ(思考の覚書)】


ある嘆きのツイートを見て、直感的にハイコンテクストでわからない…と感じた。


社会問題についての意識の低さに嘆いているらしかった。(うろ覚え)


なんとなくの想像はつくけど核心はズレてるかもしれないし…


というモヤモヤが常に発生するのでハイコンテクストを多用しがちな人とはわりと距離を置くようにしている。私の処世術。


たまにならいいけど頻回だと疲弊がすごいので…


「だからどういうことだってばよ?」


みたいに私がサラッと質問できればいいのだけど…


質問できずにとりあえず雰囲気だけ合わせて(でいったい何を嘆いていたんだ?)とモヤモヤしたまま終わるからなぁ。


私は未解決の負の感情をシェアして一緒に嘆いてもらいたい、という気持ちはもともとあまりないんだ。自己完結型


気持ちが上向きになって自分の中で決着がついたらシェアしようかと思うことはある。


その決着を見届けてほしいみたいな気持ちなのかな。


あとは対象を非難する意図はなく純粋に「なんで?」と思った時か。


あと理不尽を本人の自覚なく振り回している人を見かけてこれは理不尽では?と識者に確認することはある。答え合わせ。


納得できん!みたいなことはあまりないんだ。


入り口がそうでも考えているうちに納得してしまう。機序がわかると気が済むというか。


「信じられない!」は私には基本ない。現実に起きたことであれば、信じようと信じまいとそれは現象として「ある」ので。とりあえず信じる。


(このくだりはこれまでにも旦那との会話の中に何度か出てきたことがあって、そのたびに旦那氏から「実にあなたらしい」と爆笑&絶賛される。たぶんここが世間からかなりズレてる部分なのだろう)


物わかりの良いわきまえた弱者になってしまってそれが差別や搾取を下支えしてしまっていると言われてしまえばその通りなんだけど。


それが自分にとって不都合であればまずは信じて存在を受け入れた上で、つぶさに観察し対策をする、という順序と方向性になる。


信じられないという感覚がわからない。私は自分の感覚より現実の方が重いと感じる。それはすでに出現しているのだから信じるしかないであろう、と。(この辺りがどうも周りと合わない部分なのかもしれない)あとは差分の修正。


心の問題が一番不都合であれば自分を納得させる方向に時間を振るし、心云々より現実での不利益が甚大であれば相手になんらか働きかけるか環境を変えて相手との関係を断つか。間をとって距離を置くという方法もある。


ネット上であればミュート・ブロックも有効だ。


働きかける場合、基本姿勢として私は感情はあまり使わない。損得や合理性で働きかけた方が自分にとって楽だからだ。(旦那からAIと呼ばれる所以ではある)ただ、最近の発見で感情を全面に出す相手に対しては理屈より感情に働きかけた方が状況が動く可能性が高いというのは理解してきた。あまり得意ではないけれど。


あと個人的に「嘆く」という言葉が圧が強くて好きじゃないんだなと自己分析してわかった(個人の好みです)


すごい怒りと攻撃を内包してるのに被害者ポジションに居座る感じ…自分が被害者であれば相手をいくら攻撃しても許されるという感覚なのでは?という疑念がわく。


嘆くって相当強い怒りが内包されてるよなぁと思う。


私は個人的に嘆く人の傷つきと怒りに長年搾取されてきたからすまんがもうこれ以上私を差し出してあげられないと感じているのもある。


建設的にその構造を変化させるために行動するのに具体的に感情抜きに協力してほしいと請われれば内容次第で受けないことはないけれど、感情を差し出せと言われたらそれはもうできないのだ。私の中でもう限界を越えたので無理なのである。


そして人との関わりの中で信頼とつながりを得るためにわりとフランクに求められるんだ、この【感情の差し出し】という行為は。


相手は感情まで差し出せというつもりはないのだろうけど、嘆く人に「相手にも事情があるのでは?」などと異をとなえたら暴力的なまでに傷つくのだろう。たまにならばいいが、息を吐くようにいつも嘆く人はそれこそ無敵の人かと思う。


この同じ感情しか許されない感じがこわい。相手の傷つきという人質をとられて自由に感じたり考えたりすることを禁じられる感覚。すまないけれど私の心は私のものだから、あなたと揃えるように支配されるのは苦痛だと感じる。


嘆いている人がいたら気の毒なことだと思う。同じ怒りを持たなければ仲間ではないと言われたら私は仲間ではないのかもしれない。すまない、と思う。


反射的に同じ感情の色に染まっている人を見るとすごいなぁと思う。声のトーンも表情もちょうど良く嘆いている人に自然にシンクロさせている。そこには同じ色の輪が広がっている。この色の共有が仲間意識なのだろう。


でもそういうサッと色を変幻自在に合わせられる人ほどその輪を離れたらサッサと自分の感情に戻っている。たぶんちゃんと心が二重構造になっていて、同調する部分と本当の心の部分は分けてあるのだろうと思う。


そこの切り替えに苦はないように見受けられる。それとも私の認識不足で、そういう人も人と感情を揃えることに疲弊していたりするのだろうか。


まぁその辺はわからない。


私も早く心を二段構えにして自他境界の線をしっかり引いた大人になりたい。(私の中で大人とは自他境界がしっかり引けている人のことである)


西に嘆いている人あれば行って「そうか辛かったんだね」と言い、東に憤っている人あれば「あなたの状況であればあなたの怒りは尤もである」と肯定する、そしてそれはそれとしてご飯をモリモリ食べてスッキリ出してよく眠り呵々と笑う、さういふ大人に私はなりたい。


ええと、たしか肯定はジャッジなしでやっていいんだな?人の話を聞くのに共感と同意は必ずしも必要ない、必要なのは肯定だけ、とDJあおいさんが言っておったはず(ここ毎回どれがどうだっけ?と思ってこのページを何回も読んでしまう)

https://djaoi.blog.jp/archives/87324537.html


閑話休題


で嘆くといえば右大将道綱母(決めつけ)


▪️歎きつつひとり寝(ぬ)る夜の明くる間は

いかに久しきものとかは知る


百人一首にも入っている拾遺集の一首。

うーん久しぶりに見たけど相変わらず圧がすごい。


反語強調の「かは」だからねぇ。

これはすげー恨んでるな、間違いない。


私の中の嘆くの最初のイメージはこの歌なんだよな…だから抵抗があるのかなぁ、恨みがましい感じに。


あとはコレか。西行サン。これもまた百人一首にある歌だな。


▪️なげけとて月やは物を思はする

かこち顔なるわが涙かな


ここでもやはり嘆くの属性は攻撃なんだよなぁ。「月前の恋」をテーマに詠まれた歌とのこと。


最近息子らがプレバトを気に入り俳句ばかり見ている私にとって月は秋。冒頭は強すぎる中秋の月の光に痛みを感じて咄嗟に攻撃と錯覚したのでは、と私には見える。(もちろん別のしみじみとした月でも冴え冴えとした月でも構わないわけだけど)


「嘆けと言っているのだろうか」ここで反語やは。「いやそうではない」嘆くという言葉と反語はもはやセットなのだろうか。強いなー圧が。いやはや。


で下の句。「佗顔(かこちがお)=恨みがましい顔で涙するのは私の勝手で月は関係ないのだから。ああ。」


いやー相変わらずウエットね、西行法師。この人自責煩悶タイプだからそこまで圧はないけど、ご本人は勝手に月から存在しない圧を感じているという…難儀な。あと被害者意識がすごい。


「嘆け」って命令形にすると圧がすごいな。でも同調圧力ってこんな感じか。他者に「これが正しい感情だからそう思え、そう感じろ」って感覚を強要されるのつらいな。


まぁそれも私が勝手に輝く月から受けとる存在しない「想像上の圧」なのかもしれぬけどな。この辺りは私の課題かもしれぬ。


変に枝葉の言葉ひとつに囚われすぎない方がいいかなとは自分でも思うのだけど、どうにも言葉にこだわりがあって気になっちゃう。あと言葉の使い方ってその人の個性が出るよなとは思う。


嘆き、恥ずかしい、信じられない、呆れる、もう終わりだ、がよく出る人とはあまり通じ合えない気はする。(もちろん最近は「この人は信じられないんだな」と相手の気持ちを肯定することはできる。ただまぁ同意はできない。)使う言葉と心は繋がってる。


言葉といえばこないだ某所で「ひとりでゲームをするのがみじめ」という言葉の表現をされた方がいて国語的にとても引っかかった(←拘り)


みじめという言葉は悪意のある【他者の目】があって成り立つような気がして。自分で自分を「みじめだ」と断ずる感覚が私にはわからない。


家でひとりでいる時にみじめを感じるというのは余程その人の中に悪意のあるイマジナリーな他者がいるのかな?と思ったり…


もしくは現在の状況よりも過去になにか晒し者にされて(して)人前で恥をかかされた(かかせた)強烈な記憶にずっと心が囚われているのかもしれない、と思ったりする。


端的に言えばみじめな状況の人をその人自身がものすごく馬鹿にしているのかな、と。


(私の認識では脳は自他の区別がつかないので人に向けてした攻撃や見下し、無体なことは自分の脳にダメージとして残ると考える。自分が他人に平気でしたこと、すること、はそりゃ他人から平気でされるものね。)


旦那氏にこの「ひとりでゲームをすることはみじめか?」と問うたところ、「それはみじめというよりは【むなしい】ではなかろうか」と返ってきた。


たしかにむなしい(虚しい・空しい)であれば違和感はない。寂しい、とかつまらない、でもいいかなとは思う。


そしてひとりでゲームをやることはそれがひとり向けゲームであれば自由にのんびりマイペースにできて楽しいのでは?むしろ充実。というのも私と旦那では同意見だった。


その人はひとりでラーメン屋に入れないタイプだろうか。私は若い娘時代からひとりでラーメン屋はもちろんファミレスも行けるクチである。


あと旦那氏は「みじめというのは状況を表す言葉で、感情を表す言葉ではないのでは?」とも言っていた。どうだろう。少なくとも色々と突き詰めたところ、私と旦那氏は2人とも「みじめという感情」は自分で味わったことがないらしい、ということがわかった。


旦那氏の場合はみじめという感覚はなんとなく理解できるが、それを先回りして全力で避けてきたのでそういう状況に陥ったことがなく、私の場合はみじめを感じるには「人の目を気にする」というみじめを感じるための基本構造であるところの感覚器官がぶっ壊れているか欠損しているので感じようがないのではないか、というところで落ち着いた。


(これはお互いへの誹謗中傷ではなく事実に基づいた仮説であり、我々はわりと仲良しです)


旦那氏は本を全く読まないので言葉の知識が口語に偏っていてたまに頓狂なことを言うのだけど、さすが人生の膨大な時間を文字を介さず口話だけで叩き上げてきたことだけのことはある。(褒めてる)


稗田阿礼みたいなものだな。文字を持たないけれども叡智はとんでもない。生活知というか、本質をついたことを言うので本当に尊敬する。


その後話の流れで私の経験したこれまで他者との関わりの中で起きたさまざまなエピソード(ひとりだけ移動教室で置いていかれる、ひとりだけランチに誘われない、ひとりだけお土産を配られない等)を披露したところ


「それこそがみじめ、という状況だ」


とわが家の叡智の塊こと旦那氏から太鼓判を押されたので、私自身にはその時みじめという感覚はなかったが(置いていかれるのは私がトロくさいからで、ひとりだけ誘われないのは主催者が私のことを嫌いなんだな=納得、それを見せつけられればわざわざ変なことをする人だな、とは思っていた)、私の置かれた過去の状況は十分みじめたり得たらしい。


どうやら「みじめ」、というのは「仲間はずれ」に通じるものではないか、というのが私と旦那氏にできた共通認識だ。だからといってなんということはないのだけど。


そして仲間はずれというか多数派や主流から外れることを「恥」とする文化の中で「みじめ」という感覚は育つのではないか?とも。


ではさっきの人は、家でひとりでゲームをやると「仲間外れ」にされている感覚を覚える、ということかしら。でも誰から?今度聞いてみよう。


そう言われてなお私はかつての除け者にされたかもしれない私をみじめとは思えないのだけど。(恥の感覚の欠如?)自分に向けてみじめを使うという感覚がやっぱりわからない。


私にはどうやらまだ備わらない、みじめと嘆きを備えた人生。それはもしかするとすごくなんというか、ドラマチックで劇場型の人生なのかもしれないな、と思った。


あと人の言葉尻を捉えてシノゴノ言って(言葉狩りみたいですまぬと思う)私もいつまでも人の嘆きやみじめさにいちいち自他境界を侵食されたとたじろがずに、きっちり線を引いた上で相手をありのままに肯定できる精神的に成熟した大人になりたいものだなと改めて思う。


はやく大人になりたい。(4◯歳児)


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